大山記について
丹波篠山市の大山地区には、江戸時代に書かれた『大山記』という古文書が伝わっています。そこには、旧大山村の神社仏閣、名所、和泉式部伝説などが書かれています。また、八つの名所を選び、「大山八景」として紹介しています。
『大山記』は、2種類存在しています。延宝年間(1673~1681)に書かれた作者不明・不完全本の『大山記』、貞享年間(1684~1688)の『大山記』です。
貞享年間の『大山記』の作者は、徳永村の大庄屋・中沢文右衛門であると考えられています。
中沢文右衛門は、『篠山領地志』の資料として書上を命ぜられ、貞享2(1685)年、『大山村古跡覚書』を著しています。この『大山村古跡覚書』をもとに、中沢文右衛門が、『大山記』を著したと思われます。
久下隆史氏は、中沢重正の漢詩や俳句が掲載されていることと、『大山記』が徳永の所在地である中村から筆を起こしていることから、作者は徳永中沢氏、すなわち、元禄4年(1691)年に死去した中沢重政(=重正)ではないかと考えられています。
※『大山村古跡覚書』は『大山村史』の史料編に「中道文書」として掲載されています(大山村史432頁)。
それでは、大山八景を詳しくご紹介します。以下の記事は、西尾家所蔵の『大山記』をもとに書いています。
大山八景

大山八景が紹介されている順に並べると、次のようになります。ただし、西尾家本は、7番と8番が抜けています。( )内は地名です。
1.波賀尾の暮雪(大山新)
2.高蔵寺の晩鐘(高倉)
3.塩地の落雁(長安寺)
4.追手の夜雨(大山宮)
5.友武の夕照(大山宮)
6.籠原の晴嵐(大山上)
7.大山谷の田植え(大山上)
8.五本松の秋月(町ノ田)
波賀尾の暮雪(大山上)

標高392mの波賀尾岳は、何ともない普通の山ですが、見る角度によっては綺麗な三角形をしており、富士山に似ているということを納得させられます。
福原潜次郎は、波賀尾岳を「古い時代に於いて民俗が聚落地を求むる為に移動する際には必ず特殊な山を目標とした」標山であると指摘しています(『多紀郷土史話』1934年)。
旧山陰道を西紀から大山にやってきた旅人は、長安寺で波賀尾岳を目の前にします。波賀尾岳に向かって右へ行けば出雲へと続く道になります。波賀尾岳山腹には多くの古墳が存在していますので、昔は特殊な山と映ったことでしょう。
西行法師の歌
大山には西行の歌とされる波賀尾岳を詠んだ和歌が伝わっています。
『大山記』では、
「富士に似てふしにはあらぬ大山の
波賀尾嶽の雪のあけほの 廻国上人」と書かれています。
これが『大山村古跡覚書』では、
「一、波賀尾嶽、此山駿州富士山に似たる由西行法師の歌とて申伝候。
○富士に似てふしにはあらぬ大山の波賀尾か嶽の雪の曙
廻国上人といへる僧北野村
読ル」と書かれています。 (
=より)
廻国上人とは諸国を回って歩く(諸国行脚をする)僧侶の総称です。『大山村古跡覚書』は、富士の歌は西行法師の歌という伝承があると言いながら、歌に続けて「西行法師北野村
読ル」とは言っていません。『大山記』は、西行のことに一切触れていません。はたして西行の歌でしょうか。
西行法師
西行(1118~1190年)は、23歳で出家した後、諸国行脚の旅に出て多くの和歌を残しています。ですので、各地には西行に関する伝説が残っています。諸国といっても東北・陸奥、中国・四国などで、しかも陸奥へは東大寺再建の勧進のために、四国へは崇徳天皇の慰霊のためにと、多くが目的を持った旅で、漂白というものではありません。また、丹波篠山に立ち寄ったという記録はありません。
西行に関する伝説は、西行没後15年めに成立した『新古今和歌集』でさらに増幅します。それは、『新古今和歌集』には西行の歌が最も多く撰ばれていること、『新古今和歌集』の編纂の勅命を下した後鳥羽上皇が西行に傾倒していたことによります。
そして、西行伝説が世に広まるにつれて、西行追慕の気運が高まり、西行の足跡を慕って廻国修行を志すものが現れます。おそらくこういったものの一人が波賀尾の歌を詠んだのではないかと思います。
あるいは、西行は高野山で30年もの間修行をしていますので、大山に高野山への信仰を広めるためにやってきた高野聖か熊野三山への信仰を広めにやってきた熊野の修験者、または熊野比丘尼の可能性があります。
詳しくは別に譲りますが、熊野の修験者が大山にもやってきたことは、和泉式部伝説が大山宮に残っていることなどから想像できます。
福井の西行
福井県に文殊山という山があります(標高366m)。角原という地からの眺めが富士山に似ているということで、別名「角原富士」と呼ばれています。西行がこの文殊山を望んで詠んだという歌が伝わっています。
「越しに来て富士とやいはん角原の文殊が岳の雲のあけぼの」
大山の歌とよく似ていますね。福井県では、西行は朝六つ時に橋のたもとで歌を詠んだことになっています。以後その橋は「朝六つ橋」と呼ばれるようになったという伝承があります。大山にもこのような伝承があってもよいはずですが、それがありません。もっとも福井まで西行が旅したという確証はありません。
大山に西行の伝説・伝承が残っていないということからも、大山の「波賀尾」の歌は、西行が詠んだものではないと言えるでしょう。
2002年、大山新の新生橋に平行して新しく橋が架けられ、波賀尾橋と名付けられました。橋には、大山小児童と大山幼稚園児、大山保育園児計135人の手形を刻んだ御影石のプレート23枚が埋め込まれてます。
波賀尾岳とこの橋が大山の名所の一つに数えられることを願っています。

高蔵寺の晩鐘(高倉)
宝橋山高蔵寺は、7世紀に黒頭峰の山腹に建立されていました。七堂伽藍を備え、僧坊(寺院内の僧の住む建物)は21もあったそうです。しかし、1578年、明智光秀の丹波攻めによって焼失してしまいます。
1592年、現在地に本堂と西蔵坊、光源坊、泉蔵坊が再建されますが、1650年に本堂が焼失しています。現在の本堂は1721年に復元されたものです。
1716年には壇信徒によって梵鐘が寄進されという記録がありますが、『大山記』はそれ以前に書かれていますので、八景の梵鐘ではないことがわかります。寄進された梵鐘は、太平洋戦争中に供出されています。現在の梵鐘は1953年に鋳造されたものです。
塩地の落鴈(長安寺)

「塩地」とは池の名前です。この池がどこなのかよくわかりません。ただ、「大山村古跡覚書」の大山長安寺村の段に「塩池 此池ニハ・・・」とありますので、長安寺にあることは間違いないでしょう。
『篠山封疆志』には、「潮池 長安寺の東にあり池水盈虧する事潮汐と合ふ、今絶へたり俗に竈口と日ふ」と書かれています。
「池の水が潮の満ち引きのように、水位が変わった」と言っています。なので、塩地の池(潮池、塩池)と呼ばれるようになったようです。
長安寺の交差点から、県道長安寺・篠山線を西紀に向かって行くとすぐにカーブなっていますが、カーブが終わったすぐ左の山裾に池があります。この池は「庄ノ池(ショウノイケ)」と呼ばれています。
庄ノ池から少し行くと右手に池があります。この池は北野新田の方と西木ノ部の方が管理されているもので、北野新田の方は「大谷池」と呼び、西木ノ部の方は「ショウノイケ」と呼んでいます。「塩地の池」はこの2つのどちかだと考えられています。
「落雁」とは、「空から舞い降りる雁」という意味で、俳句の季語にもなっています。そもそも渡り鳥の雁は、ほとんどが東北地方や北海道で越冬します。現在の丹波篠山市に雁が飛来しているという話は聞いたことがないので、当時、はたして雁が飛来していたのでしょうか。
その答えは、大山八景のモデルになった八景の存在が関係しているようです(後述)。
追手の夜雨(大山宮)

追手神社の祭神は追手大明神=大山祇命です。大山祇命は全国の山の神を統括する神で、総本社は愛媛県今治市の大三島にある大山祇神社です。
神仏習合の時代にあっては、釈迦如来を本地仏(神の本来の姿)としていました。また、江戸時代、追手神社には別当寺として大乗寺末神宮寺がありました。享保2(1717)年、氏子(大山宮、大山上)によって神宮寺に梵鐘が寄進されています。
追手神社の本殿の規模からすると、境内の面積が広いと感じるかもしれません。それは、追手神社の境内に神宮寺があったからだと思われます。
明治の神仏分離により、追手神社の梵鐘は大乗寺に移設されています。明治41(1908)年12月には、国時にあった赤禿稲荷社、加茂地にあった秋葉社・ふじま愛宕社が追手神社に合祀され現在に到っています。(合祀の年はわかりませんが、加茂地にあった蛭子社、清水池の上にあった山の神も合祀されています。)
追手神社の祭神は大山祇命ですが
追手神社の祭神は大山祇命ですが、こんな伝説があります。
昔、鐘を盗んだ一人の神様を「追っ手」行くもう一人の神様がいた。鐘を持った神様は、峠を越して(丹波市の)小倉まで行った。夜が明けたのでその場に鎮座した。この神社を「鐘野神社」(刈野神社、現在は苅野神社)と言う。
一方、追う方の神様は、坂の下まで来たところで夜が明けたので、その場に鎮座した。この神社を「追手神社」と言う。また、鐘を持って越えた山を「金山」、降った坂を「鐘ヶ坂」と呼ぶ。
夜が明けなかったら、鶏が鳴かなかったら、鐘を持った神を捕まえられたかもしれない。ということで、昔から村内に鶏を飼う者がなく、飼えば必ず神罰があると伝えられている。一方、小倉では鶏が鳴いたおかげで助かったので、感謝して鶏を食べないと言う。
追手神社の祭神は大山祇命ですが、なぜか女の神様だということが現在まで言い伝えられています。
友武の夕照(大山宮)

丹波篠山市大山宮地区には、和泉式部伝説が残っています。和泉式部は、丹後に赴く際に、子の加袮と大山宮に住んでいた友武という人物の家に泊まります。しかし、にわかに加袮が病気にかかり亡くなってしまいます。加袮を葬った墓があると『篠山封疆志』は伝えています。
そして、和泉式部は丹後に赴き、文殊堂に詣でます。そこでお腹に子を宿していることがわかり、恥じて自殺しようとしますが、友武の家で一女子を産みます。しかし、あってほしくないことだとして、この子を追入の坂に捨てます。
その夜、和泉式部は文殊様の夢をみて、「母にして児を棄てれば、だれかこれを育てん。汝これを愛育せよ」と告げられます。和泉式部は、友武に子を迎えに行かせ、その子を亡くなった子と同じ加袮と名付けます。
和泉式部は、子を友武に託し京に帰ります。親子が分かれたところが、「別れ路の橋」です。
和泉式部は再び大山宮に来て、加袮と再会し、京に連れて帰ります。この子が後の小式部であると伝えられています。
あるいは、加袮は後に尼となり、大山宮の地に居たとも言われています。加袮が居た地が「加袮居畠」(金井畑)ということです。また、加袮を捨てた坂を「加袮の坂=鐘ヶ坂」と呼ぶようになったそうです。
※地租改正前は「加袮居畠(カネイバタ)、地租改正後は「金井畑(カネイバタ)」という字名で呼ばれていました。現在の正式な字名は、「金井畑(カナイバタ)」です。
さて、友武谷の裾(金井畑地番140)には、和泉式部の墓があり、五輪塔が建っていました。また、加袮の五輪塔もすぐ下の田んぼの中にあったようです。
五輪塔はやがて崩れ、長らくそのままになっていましたが、1980年代のほ場整備の際に大山宮地区の共同墓地に移されています。

籠原の晴嵐(大山上)

西尾家のある四つ角から荒子新田に向かって少し行くと橋があります。そこから少し上り坂になっていますが、坂の途中から道に沿っていた川は左に曲がっています。この川と道との間の土地を籠原と言います。
近年、古墳時代後期の住居跡と平安から鎌倉時代の掘立柱建物跡が確認されています。籠原遺跡(報告書ではカゴハライセキ)と言います。
晴嵐とは、晴れた日に山にかかるかすみ、又は晴れた日に吹く山風のことで、籠原の北側は、谷間にある大山の中では広々とした場所です。
特に、八束穂田は、大山の中で最も生産力が高い土地で、また、良質の米が採れました。豊かに実った稲穂を「八束穂」と呼ぶところから、八束穂田という坪名になったのだと思われます。
八束穂田から採れた米は、朝廷への献上米とされたようです。平安後期の学者・歌人であった大江匡房(1041~1111年)は、次のように詠んでいます。
「ちはやふる 神田のさとの いねなれは
月日とともに ひさしかるへし」
※月日とともに 久しかるべし:月や日と共に 長く続くであろう(恒久であろう)
この歌は、『千載和歌集』(千載集)に載っています。歌の詞書(和歌や俳句の前書き)には、「白河院御時 承保元年大嘗会の主基方稲舂歌 神田郷をよめる 前中納言匡房」とあります。
つまり、承保元年(1074年)に行われた白河天皇の大嘗祭において、神田郷で抜穂式が行われ、それを祝って大江匡房が詠んだ歌だということです。
それならば、「籠原の晴嵐」ではなく、「八束穂田の晴嵐」としてもよいと思うのですが、おそらく、西尾家の旧所在地が「籠原」であり、西尾家の旧姓が「籠原」であったことと関係しているのだと思われます。
『武陵集』の序文と略伝には、次のように書かれています。
序「丹州における西尾家は室町期の籠原小治郎に発し連綿十六代を重ねた名家である。享保十七年(一七三二)現在地に移り、姓を西尾と改め、酒造業を開始して当代に継承される。」
略伝「家伝によれば、西尾家の遠祖は河内国石川郷の出というが、中頃石川左京進直忠の代に、その弟石川小太郎直近という人が永禄の松永弾正の乱を遁れて京師を去り、丹州籠原に住したのをもつてその中祖とする。籠原というのは現在地より少し奥にあたる。」
『大山記』の作者は、このことを考慮に入れ、八景の一つを「籠原の晴嵐」としたのかもしれません。
籠原遺跡
かつてこの遺跡付近から石斧や土器片が出土していました。そこでこの一帯の遺跡を隣接の八束穂田坪の名をとって八束穂田遺跡と名付けられました。しかし、1985年の調査で籠原坪を中心に遺構が広がっていることが確認され、籠原遺跡と名称を修正されています。

この遺跡からは、古墳時代後期の竪穴住居跡9棟と、平安時代から鎌倉時代の掘立柱建物6棟が確認されました。(竪穴住居跡:SB02,SB04,SB06,SB09,SB11 掘立柱建物:SB03,SB07,SB08)
SB02がこの遺跡最大の住居跡(6.5m×5.0m)で、南側中央壁端にカマドを備えていました。出土した須恵器の形式から、住居の時期は7世紀前半と考えられています。現在は水田になっていますが、水田の中にお稲荷さんが祭られています。
大山谷の田植え(大山上)

大山谷は今の石住から高倉にかけての谷間です。京都の東寺は、空海が創立した綜芸種智院を空海の死後売却し、そのお金で承和12(845)年に藤原良房から大山谷付近の44町140歩を購入します。
東寺による初期大山荘の経営はこの地から始まります。大山谷では須恵器の生産が盛んにおこなわれていましたので、この地が八景の一つに選ばれたのではないかと思われます。
五本松の秋月(町ノ田)
五本松は、昔、姫塚というのがあって、そこに五本松と五輪塔あったようです。国道176号線を建設する際に塚は壊され、五輪塔は地蔵堂の脇に移したという記録が残っています。ただし、五本松は一箇所にあったのではなく、町ノ田の灯籠の松、一里塚の松などを指すという意見もあります。
姫塚については次のような伝承があります。以下その要約です。
「昔、金持ちの家に、美人で働き者の娘がいました。ある日、訪ねてきた地侍の水谷刑部に恋をします。そして二人は将来を約束する仲となります。
しかし、娘の親は大金持ちに嫁がせるつもりなので、刑部をあきらめるように説得します。当然娘は承知しません。そこで、娘の親は刑部を竜門の瀧に魚釣りに誘い、刺し殺し、死体を滝壺に投じます。
親は、刑部が誤って瀧に落ちて死んだことを告げ、大金持ちのところに嫁ぐことを娘に承諾させます。しかし、娘は機織りの糸を切って、返す刀で自害し、刑部の後を追います。その日は丑の日でした。以後、大山では娘の供養のため、丑の日に機織りをしないと伝えられています。」
大山八景のモデルは瀟湘八景?
「大山八景」をご紹介しましたが、大山八景のモデルは、中国の「瀟湘八景」であると思われます。瀟湘八景は、北宋の時代(960~1127年)、画家の宋廸が、現在の湖南省長沙市地域の景勝地を八つとりあげて絵にしたのが始まりだと言われています。
その後、瀟湘八景は、山水画の画題になっていきます。日本には鎌倉時代に伝わり、室町時代には水墨画家や狩野派などによって多くの作品が描かれていきます。
一方で、瀟湘八景をモデルした八景が、日本の各地で選定されるようになります。
| 瀟湘八景 | 大山八景 | 近江八景(滋賀) | 水戸八景(茨城) |
| 瀟湘夜雨 | 追手夜雨 | 唐崎夜雨 | 青柳夜雨 |
| 平沙落雁 | 塩地落雁 | 堅田落雁 | 太田落雁 |
| 煙寺晩鐘 | 高蔵寺晩鐘 | 三井晩鐘 | 山寺晩鐘 |
| 山市晴嵐 | 籠原晴嵐 | 粟津晴嵐 | 村松晴嵐 |
| 江天暮雪 | 波賀尾暮雪 | 比良暮雪 | 僊湖暮雪 |
| 漁村夕照 | 友武夕照 | 勢多夕照 | 巌船夕照 |
| 洞庭秋月 | 五本松秋月 | 石山秋月 | 広浦秋月 |
| 遠浦帰帆 | 大山谷田植 | 矢橋帰帆 | 水門帰帆 |
もうお気づきかと思いますが、全てに「夜雨」、「落雁」、「晩鐘」、「晴嵐」、「夕照」、「秋月」が使われています。
最後の「帰帆」が「大山八景」だけ使われていません。帰帆とは、夕暮れ時に舟が一斉に港に帰ってくる風景のことです。大山は、山に囲まれた地なので、『大山記』の作者はやむを得ず「田植」にしたのだと思われます。
『大山記』の作者は、「瀟湘八景」をモデルとし、伝説・伝承が残る地を「大山八景」に選定したと言えます。伝説・伝承を紹介しながら、作者自身が詠んだ和歌や漢詩も載せているのが『大山記』です。
参考文献
花部英雄『西行伝承の世界』岩田書院 1996年
目崎徳衛『西行』吉川弘文館 1980年
高橋英夫『西行』岩波新書 1993年
白洲正子『西行』新潮文庫 1996年
久下隆史「中・近世における大山地区の神社と祭礼について 広域祭祀の背景」『国立歴史民俗博物館研究報告』第98集 2003年)
福原潜次郎『多紀郷土史話』多紀郷土史話刊行会 1934年
奥田楽々斎『多紀郷土史考』多紀郷土史考刊行会 1958年
西紀・丹南町教育委員会『丹波国大山荘現況調査報告Ⅱ』1986年
梶村文弥『情熱の歌人 和泉式部』あいわ書房 1997年
西紀・丹南町教育委員会『大山荘内埋蔵文化財調査概要報告書』1992年
西尾野水編『武陵集』1965年

