
西尾武陵(にしおぶりょう)明和3年(1766)~天保9年(1838)
江戸時代の俳人である武陵(本名:邦直、通称:呉四郎、別号:杜陰、白雲居)は、大山村の庄屋、醸造家である西尾家に生まれました。21歳で家督を相続(12代)する一方で篠山藩の台所方の御用を務めています。
たいへん多忙な日々を送っていたと思われますが、風流人として諸芸に通じ、特に俳人としてその名声を残しています。
武陵は、与謝蕪村の門下であった篠山城下の菱田暮寥を頼って京都の高井几董に教えを請いますが、几董が寛政元年(1789)に没した後は、終生、江森月居に師事しました(几董と月居は蕪村門の双璧と言われていました)。
俳号の「武陵」は、陶淵明(365~427年)の「桃花源記」によったものと言われています。桃花源記は、「晋太元中武陵人捕魚為業(晋の太元中、武陵の人、魚を捕らふるを業と為す。)」から始まります。
※晋の太元中:東晋の孝武帝の太元年間(379~396年)
※武陵:中国湖南省の北部にある地名
※『大山村史』は、陶淵明の「桃花源詩」としていますが、桃花源詩には武陵という地名は書かれていません。
※ちなみに、中国唐の時代、于武陵(810年~?)という詩人がいました。武陵の俳号は、于武陵によった可能性もあります。于武陵の「勧酒」という詩の結句「人生足別離(人生、別離足し)」を井伏鱒二が、「サヨナラダケガ人生ダ」と訳したのは有名です。
武陵は、商用を兼ねて京、大坂、伊勢、吉野などへ出かけることがあり、その地で詠んだ句が残されています。しかし、公務と家業をおろそかにすることはなく、大山にいることが多かったようです。
このため、諸国行脚の俳人を迎えることが多く、また60名を超える俳人と文通による交流を結んだため、たくさんの書簡が残されています。寛政元(1789)年8月には師である月居を迎え、次の句を詠んでいます。
雁がねに秋のかさなる夕かな 月居
独わけ行原中の月 武陵
天保7(1836)年に長男多喜蔵に家督を任し隠居の後、天保9(1836)年12月26日に73歳で亡くなります。俳諧に関するものだけでなく、武陵が残した日記や記録は、江戸後期の地方文化を知る上で貴重な資料になっています。
丹波篠山市の河原町には、武陵の句碑(旅人をけふもそだてて春の風)が建っています。句碑は、河原町通りの入り口、河原町駐車場の側にあります。

参考文献:(財)柿衞文庫編 『兵庫ゆかりの俳人』 神戸新聞総合出版センター 1998年
